洛星中学校
合格-2013年度
思いに応える
ぼくは、治療困難な病気になっている患者さんを治療して、苦痛を和らげ、本人や家族を幸せにできるような医者になりたいという将来の夢を持っています。 その理由は、だれかの役に立つ仕事をしたいと考えていて、現在治すことができないような病気を治すことができたらすばらしいことだと思うし、またすごくやりがいのある仕事だなと考えたからです。
将来の夢を決めてからは、医者になるために、ものすごい勉強量が必要だと知り、やらなければならない勉強はさぼらず、がんばったつもりです。社会では重要な用語を死にものぐるいでノートに書いて覚えました。また苦手な算数は、基本的な問題を繰り返し練習してマスターしていきました。
今から三年前、小学三年生のとき、ぼくは成基に入塾しました。おもしろそうな先生がいらっしゃったので、入塾してみようかなと思ったのです。入塾した三年生のときは、あまり苦労しなくても自分でも満足できる成績がとれていました。四年生になり、少し勉強が難しくなってきましたが、「スーパー特訓」(現「最難関特訓」)にも参加できたし、「このままいけば、第一志望校に合格できるだろう。」と甘くみていたのです。しかし、勉強はそんなに甘くはありませんでした。五年生になって四年生と同じ調子で勉強していたら、どんどん「オープンテスト」の成績が下がり始めたのです。もちろん「最難関特訓」のメンバーからも外されました。冬になると担任の先生から、「もっと真剣にやれ。」と注意されましたが、当時は遊ぶのに夢中で、どうしても遊ぶことをやめることができず、約束を破ってしまっていました。その報いはすぐにやってきました。六年生になって「日曜進学教室(日進)」が始まりました。一回目からいきなりひどい成績でした。全園で百五十三位。志望校合格ラインからかけ離れたものでした。絶望的でした。しかし、ぼくは、「悪いときもあるさ。」と思って、姿勢を変えないまま同じ調子で勉強していました。その結果、二回目から最後の「日進」までずっと同じように低迷したままでした。ショックでした。しかし、落ちこんでいるひまがあったら少しでも勉強をしなければ、と自分を奮い立たせ、国・算・理・社の基本問題を徹底して復習しました。どんどん時間だけが過ぎていきました。
九月、大好きな祖母が亡くなりました。ぼくは、お葬式のとき、祖母の言葉を思い出していました。祖母は京都の人で、かねてから、「Tちゃん、大きゅうなったら洛星行きや。洛星はほんまにええ学校やで。」と言っていました。ぼくが洛星中学校に行きたかったのは、そんな祖母の影響があったからかもしれません。ぼくは泣きながら祖母の遺影に向かって誓いました。「おばあちゃん、天国から見ててな。ぼく絶対洛星に合格するから。」と。それから死にものぐるいの三ヵ月間でした。祖母に見守られていると思うと、それまですぐに集中力がとぎれていたのが、不思議と持続するようになりました。「日進」の成績はあまり変わりませんでしたが、気持ちは落ち着いてきました。
そして入試当日。緊張の中でがむしゃらに問題に取り組みました。たくさん解けなかった問題がありましたが、とにかくすべてを出しきった充実感がありました。そして合格発表のときを迎えました。心臓が破れつするほどの不安と緊張の中で、合格掲示板に自分の受験番号を探しました。「あった、あった、ぼくの受験番号!」こうして洛星中学校に合格したのでした。
ぼくの受験体験は、人に自慢できるものではありません。すぐにあきらめたこともあったし、調子に乗ったりもして、成績も上がったり下がったりでした。でも一つだけ伝えられるものがあるとしたら、それは「人の思いに応える」というものかもしれません。ぼくの場合は亡き祖母との約束に応えるというものでした。
ぼくの将来の夢は、「治療困難な病気になっている患者さんを治療して、苦痛を和らげ、本人や家族を幸せにできるような医者になりたい」というものです。これは、ぼくに対する患者さんの思いに応えるということだと思います。洛星中に進学して、次に取り組むことは、ぼくに対するみんなの思いを受けとめ、一生懸命やりぬくことです。
最後に、ここまで成長できたのは、自分だけの力ではないことは言うまでもありません。成基に通わせてもらったのも、中学受験をさせてもらえたのも家族のおかげだと感謝しています。また、ここまでぼくを応援してくれた友だち、そして成基学園学研教室の先生方。いつまでも、夢の実現を追い求めるぼくを見守ってください。
2021年度 - 合格体験記
名前 | タイトル | 所属の教室 |
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間宮 大雅さん | 知求館 |