京都府立嵯峨野高等学校
(京都こすもす科)
合格-2014年度
「危機」こそ「好機」
私の将来の夢は、世界中で災害に強い街づくりをしていくことです。二〇一一年三月十一日、テレビに映し出された東日本大震災の被災地のようすにショックを受け、「二度とこのような惨禍を繰り返してはならない。」と思ったのがきっかけで
した。
その夢の実現のためにはまず、高校で理系科目を広く深く学びたい、そして、大学では都市工学を学びたいと思い始め、最終的に京都府立
嵯峨野高等学校の自然科学系統を受験することを決心したのです。
しかし、夢を抱いて、すぐに努力し始めたわけではありませんでした。
中学一年生の頃は、塾に通うことだけで満足していて、授業に集中するようにと先生方から叱られることも度々ありました。
そして二年生。あるときの模試で志望校欄に、「京都市立
西京高等学校」と書いて提出しました。返ってきた結果はC判定。その後の面談で、「志望校のレベルを落とした方がいい。」と先生に言われたときに、初めて悔しいと感じたのです。
受験に対する意識が変わったのは、その瞬間からだったと思います。それからは今まで習ったことを最初からやり直し、授業の内容をその日のうちに定着させるように、同じ問題を何度も解き直すようにしました。成果は徐々に現れ、初めての〈堀川・西京・嵯峨野高校模試〉では、嵯峨野高校、西京高校ともにA判定を取ることができたのです。
三年生になると、周りの意識も明らかに変わり始め、「いよいよだ。」と思ったことを憶えています。滑り出しは順調で、〈中3夏期学習合宿(夏期合宿)〉では石川会場の二組に入ることができました。まさか、そんな上位のクラスに入れるとは思っていなかったので喜んでいた私でしたが、誰かが言った、「あとちょっとで一組に入れたのに。」という言葉にハッとさせられました。「この意識の差が、これからの成績の差として現れてくるのかもしれない。こんな意識では、自分の順位はどんどん落ちていってしまう。」と痛感した私は、それからは二組であることに妥協してはいけない、少しでも一組の人たちに近づきたいと思うようになり、死にもの狂いで勉強して厳しい〈夏期合宿〉を乗り切りました。
九月からは、いよいよ〈日曜進学教室(日進)〉が始まりました。第一回目から二十位台という成績に、〈夏期合宿〉の成果を実感していたのも束の間、また油断をしてしまったのです。〈ウルトラコース〉には入れたものの、急に成績が下がりだし、ついには教室に貼り出される順位表から自分の名前が消えてしまいました。
「このまま同じ失敗を繰り返していては、今までの努力が水の泡になってしまう。」
受験までのタイムリミットが迫ってきている中で、自分の弱さを感じずにはいられませんでした。それからは、起きている時間のうちのほとんどを勉強に費やすようになりました。みんなが解ける問題は絶対に落とさないよう細心の注意を払った結果、再び順位は上がっていき、第十四回目の共通回で十九位を取ることができたのが、本番を前に大きな自信となりました。
ラストスパートの時期となり、〈正月特訓〉、〈直前特訓〉、私立入試を経て迎えた二月十七日。嵯峨野高校の校門で、アストロの先生や仲間たちを見つけると、一気にやる気が高まりました。「今まで、どれだけ苦しくても手を抜かずがんばってきたのだから、何も恐れることはない。」と自分自身に言い聞かせ、問題に取り組みました。数学の出来が少々悪かったのですが、それでも手応えは十分にありました。
発表までの落ち着かない一週間を過ごし、ついに合格発表の日となりました。掲示板の中に自分の番号を見つけたときに、こみ上げてきたあの喜びと嬉しさは決して忘れません。
この合格は決して一人で勝ち取れたものではありません。成基学園に通わせてくれた両親、競い合い、励まし合えた仲間たち、夜遅くまで質問に付き合ってくださって、私の要望に応じて、たくさんのプリントを用意してくださった先生方、「大丈夫だ。」と背中を押してくださった先生方、すべての人に感謝したいと思います。
合格発表当日に、見に来てくださったK先生が声をかけてくださいました。
「ここがゴールじゃないからな。これからもっと、がんばっていかなあかんねんからな。」
その通りだと思いました。今はまだまだ通過点でしかありません。将来の夢というゴールに向かって、絶えず努力していきたいです。
これからどんなことが待ち受けているかは分からないけれども、私は今まで以上に大きく広がった世界へと挑戦していこうと思います。