滋賀県立膳所高等学校(普通科)
合格-2013年度
昼寝するウサギ
小学生の私は、国会中継を見たり、新聞を読んだりしたときに、ふと思った。
私たちの未来は、どうなるのだろう。これから日本は、どうなるのだろう。できるならば、これらを自分の手で決めたい。
その思いから、私は国会議員になることを決意した。しかし、私はその夢だけではなく、自分自身さえも失いかけていた。
私は、洛南高等学校の掲示板の中の数字を何度も見返した。しかし、そこには私の受験番号はなく、嬉しそうに抱き合う受験生の側で私は涙を流した。そう、私は洛南高校に落ちたのだ。私は三年前の中学受験で、洛南高等学校附属中学校に落ちていた。そして、リベンジの思いを込めて高校入試に臨んでいたのだった。
その思いを胸に三年間、私はがむしゃらにがんばった……わけではなかった。むしろ逆で、ほとんどというほど勉強をしていなかった。宿題をこなすだけの毎日を過ごし、「日曜進学教室」ではなんとか、洛南高校の空パラダイムコースの合格率八十パーセントを保っていた。
洛南高校の合格発表の場で、私はたくさんの先生に声をかけられた。いろんな励ましの言葉をかけてもらった。その中でも英語のN先生の言葉が印象に残っている。
「その涙は、悔し涙よね?」
その通りだった。落ちて悲しく流れた涙ではなく、合格できるだけの学力をつけるまで努力できなかったことへの悔しさで流れた涙だった。私は最善を尽くさなかったことを悔いた。そして、滋賀県立
膳所高等学校の入試に向け、最善を尽くそうと思った。
帰る途中、私は膳所高校の赤本を買った。あと三週間、がんばる気持ちは十分にあった。しかし、家で父にかけられた言葉は意外なものだった。「光泉高校に進学しないか?」
この言葉を聞いたとき、私は驚きの余りまともな返答ができなかった。光泉高等学校への進学は、私の中での選択肢にはなかった。
私は、光泉高校への進学を真剣に考えた。三年間勉強をサボり続けた私には、自由な校風の膳所高校より、規律の厳しい光泉高校の方がいいのではないかということ。あえて、行きたいところでない学校に行き、この受験のことを忘れないようにするのはどうか、ということ。たくさん考えたが、やはり答えは見つからず、私は成基の先生に相談した。最も私の心に響いたのは、やはりあのN先生の言葉だった。
「まだ、逃げるの?」 N先生はそう言った。
私はこの三年間、もし、また受からなかったらどうしようという恐怖から、落ちたときの言い訳になるよう、無意識のうちに勉強の手を抜いていた。秋の面談で母に指摘されたが、そのときはピンとこなくて、今になってやっとわかった。「正面からぶつかってみなさいよ。」最後にN先生はそう言った。そのとき、私の中で何かがふっきれたような気がした。落ちたっていい。全力でぶつかってみよう。合格発表のときよりはるかに強く、最善を尽くそうと決意した。
それからの三週間は本当に辛かった。
私は私立向けの勉強しかしておらず、公立の作文や記述はあまり点が取れなかった。それに、四十分という短い時間で多くの問題を解かねばならず、時間配分は難しかった。これらの苦手を克服するために、ひたすら過去問を解き、何度も作文を書き、添削をしてもらった。特に、時間配分が難しかったり記述が多かったりする数学や理科は、過去問を二十年分ずつ解いた。これは大きな自信になった。そして、五教科で四百点以上取れるようになり、特に作文は、いつも十五点以上取れるようになって準備は万端だった。
発表当日、自己採点があまりよくなかったので、覚悟して掲示板を見に行った。私の番号はうしろの方ではなかなか見つからず、奥へ奥へと走って行った。
「あった!」
番号を見つけたとき、私はそう叫んだ。そして、涙が溢れた。自分の番号を何度も何度も見返し、確かにそこに自分の番号があることを確かめた。本当に嬉しかった。
最後になりましたが成基の先生方、両親、今までありがとうございました。受験生らしい努力は最後の三週間しかしていない私を最後まで見放さず、熱心に指導してくださって本当に感謝の気持ちでいっぱいです。入塾してから九年間という長い間、本当にありがとうございました。
私は母に、「あなたはウサギとカメの、昼寝するウサギだ。」とよく言われた。昼寝するウサギは、カメと競争すると必ず負ける。入試も同じだ。
だから、私は昼寝するウサギではなく、昼寝しないウサギ、つまり国会議員になるという自分の夢に向かって、常に前へと歩き続けるウサギでありたい。
2022年度 - 合格体験記
名前 | タイトル | 所属の教室 |
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髙井 佳音さん | 守山教室 |