同志社女子中学校
(LAコース)
合格-2015年度
私の受験生活
私の将来の夢は、重い病気の人を救い、少しでも心の支えになれるような医者になることです。それは、テレビでお医者さんの特集をしていたのを見て、重い病気の患者さんが暗い顔をしていても、お医者さんの言葉によって明るい顔になり、その患者さんも助かったので、私も、「あんな医者になりたいな。」と思ったからです。
その大きな夢を抱いたときから、私は塾に通いはじめました。それは四年生のころで、教室にいた人たちは私よりも前から入塾していた人たちなんだとわかったときから、「あの人たちに追いついて、絶対に追いこしてやろう。」と思いました。そんな中で、はじめてショートテストのベスト五に入ったときは、とてもうれしかったです。そして、五年生からは成績別のクラス構成となり、一番上のクラスに入ることができました。
ところが、二か月後のクラスがえでは、真ん中のクラスになってしまいました。そのときの私は、がまんしているのに、目からは悔しさの涙がとまりませんでした。今まで自分のやってきたことは、全部むだであったのではないかと、なやんでいました。けれどもそんなときに、担任のT先生は私に、「どんなクラスに移ったって関係ない。自分自身のやる気の火がまだ消えていないのなら、成績は上がり続ける。」と言われました。そのときから、「また、がんばろう。」と思い、努力し続けました。〈オープンテスト〉の成績が悪かったときでも、T先生の言葉と、将来の夢を想像して乗りこえていきました。
ついに勝負の六年生になると、〈日曜進学教室(日進)〉がはじまりました。最初は、偏差値が四十五~四十九の間という、五十にとどかない結果でした。何度も自分に、「気持ちで勝つんだ」と言い聞かせていましたが、しんどくなったことから、ついマンガを買ってしまい、読んでしまいました。自分でわかっていたけれども、努力をおこたってしまったのです。続く〈日進〉でも案の定、結果はでませんでした。そんな中、先生との面談で、「今のままでは、君のねらっている第一志望校を受験しても、合格するのはかなり難しいよ。」と言われてしまいました。そこで、私は自分自身に、「ここで終わってしまっていいのか。三年間をむだにするような結果になってもいいのか」と自問自答をくりかえしました。ついに私の中で答えは出ました。「ここで終わるわけにはいかない。自分の夢のため、家族のためにも終わるわけにはいかない」そう思いました。
それからの〈日進〉は、偏差値が五十五以上という、とても良い成績でした。そんないろいろなことがあった受験生活でしたが、もう最後の授業となり、算数科の先生からアドバイスをもらいました。受験の前日の夜は、出陣式でもらった父と母からの手紙を読みました。自分はこんなにも周りから支えられているんだなと改めて思いました。心が落ちついて少し涙がこぼれてしまいました。
次の日は、入試なんだと思うと緊張して、夜はなかなか眠れませんでしたが、どんどん時間はたち、ついに朝がやってきました。朝ご飯をきちんと食べて、受験会場へむかうと、校門の奥に先生と友だちがいて、なぜか少し安心しました。そのあと、教室に入り開始時間を待ちました。問題用紙と答案用紙が配られてついに入試は始まりました。始まってみればすぐ終わったような気がします。できたような、できていないような感じでドキドキしていました。
そして次の日の夕方、校内での合格発表の時間です。緊張してはりつめた空気の中、番号が表示されました。「あった。」と思わず声を出してしまいました。本当は私の目指していたコースではなかったけれど、その学校に合格できた瞬間からホッとする気持ちや、少し悔しい思いが重なって涙が自然に流れたとき、私は、「これで受験が終わったんだな。」と感じました。いつも私の周りにいて支えてくれた家族、先生、友だち。感謝の思いでいっぱいになりました。こうして、私の受験生活は幕をとじました。
私は、この受験というものを通して学んだことが二つあります。一つ目は、どんな状況になってもあきらめないことです。しんどくて成績が上がらなかったら、もうあきらめたいと思うこともありました。でも決してあきらめなければ、希望の光は消えないのです。もう一つは、周りの人への感謝を忘れないことです。自分の周りの人が応援してくれることに感謝するのは、絶対に忘れてはいけないと私は思います。
私は、夢のためにここで立ち止まるわけにはいきません。中学校では勉強と部活を両立させて、無限の未来のために進化し続けたいと思います。
2022年度 - 合格体験記
名前 | タイトル | 所属の教室 |
---|---|---|
笹岡 みこさん | 京大北教室 |
2019年度 - 合格体験記
名前 | タイトル | 所属の教室 |
---|---|---|
髙岡 優月さん | 学研教室 |