神戸女学院中学部
合格-2018年度
弁護士になって弱い立場の人を助けて、希望を与えることです。
弁護士になろうと思ったのは、五年生の終わりです。女性弁護士が活躍するドラマを観て、弱い立場の人に寄りそって、何としてでも助けようとする強い意志に感動して、そんな弁護士になりたいと思いました。今はまだ、客観的に物事を見ることのできる力がないけれど、世の中のさまざまな問題について、これから勉強していきます。
絶対にあきらめない
私が成基学園に入塾したのは、四年生の春でした。理由は、兄が通っていた上に、電車を使わずに行けたからです。授業は少人数で、先生が一人ひとりを見てくださって、「ここに入りたい」と思いました。入りたてのころの偏差値はだいたい五〇くらいで、良くも悪くもないという感じでした。けれども、塾での友だちもできて、楽しく通っていました。
私が、神戸女学院中学部を志望校に決めたのは、五年生の冬です。そのころ、オープンテストなどの模試で、偏差値が六〇を超えてきたからです。学校見学に行くと、自由な校風で良い印象を持ちました。規則が厳しくないのに、生徒さんは真面目でしっかりとしている様子でした。そうやって、自分で正しいと思うことを判断できる人になりたいと思いました。
六年生になって、親や先生に、
「もう受験生だぞ。」
と言われたけれども、私は受験生という実感があまりわかずに、今まで通り楽しく授業を受けていました。
そんな私を変えたのは、〈夏期学習合宿(合宿)〉です。授業のペースが速くて、そのペースについていく他の人たちに圧倒されました。そのペースについていって、「授業の全てを理解しよう」と考えました。そして、〈合宿〉中は、燃えつきるくらい授業に集中して取り組みました。
一方、〈日曜進学教室〉では、《エントランスコース》から《ベーシックコース》までの偏差値は、ほとんど六〇を上回っていました。しかし、《ウルトラコース》では、総合順位で下から十番目、という結果が何度もありました。とても悔しかったです。
九月からは、神戸女学院中の過去問を解き始めました。最初に解いた年の合計点数が、あと少しで合格最低点に届くくらいでした。そこで、過去問との相性は良いと思いこんでしまいました。その後、何年分も解きましたが、最低点を超えたことは一度もありませんでした。そのときはもう十二月に入ったころで、父も母もあきらめかけていましたが、私は絶対にあきらめたくありませんでした。
そんな中、国語のN先生に、
「もうちょっと寝た方がいいで。」
と言われました。実際、十月くらいから、寝不足で集中できなくなっていました。そこで、早寝早起きを心がけました。それから、特に理科の点数がひどかった私に、理科のN先生が、
「基本を見直しなさい。そうしたらもっと点数上がるから。」
と言ってくださいました。そうして、基本を見直す勉強方法に切りかえました。
年が明けたころ、まだ手をつけていない二〇一六年度の過去問を解くことにしました。両親と、この年度が全然できなかったらあきらめると約束しました。絶対にあきらめたくないという執念で、時間を精いっぱい使って解きました。すると、合格最低点を三十点も上回りました。とてもうれしかったです。その後の二週間も、気を抜かずに基本を見直しました。
入試本番は、とても緊張しました。N先生が、合掌黙想をしたら気持ちが落ち着くと言われていたので、合掌黙想をしました。先生が言われていたことを思い出したり、父や母の顔を思い浮かべたりしたけれど、試験が始まるまでの二〇分間はとても長く感じられました。試験時間は、少しでも点を取りにいこうという意識を持って、時間を精いっぱい使ったので、どの教科も短く感じられました。とても集中したので、問題を覚えていないほどでした。
合格発表は、他の学校の試験終了時間でした。校門で待っていた父が、
「合格やった。」
と言ってくれたときは、本当にうれしかったです。まっ先に、宝塚教室に行かないと、と思いました。
最後まで教えてくださった先生方、本当にありがとうございました。勉強の計画を練ってくれた父、毎日お弁当を作ってくれた母には、とても感謝しています。
これから受験するみなさん、受験勉強をしていく中で、辛いとき、苦しいときがきっとあると思います。でも、あきらめないでください。そして、当日は、一二〇%ではなく、一〇〇%でやり切ってください。そうすればきっと合格できると思います。
私のこれからの人生も、苦しいときがたくさんあると思います。でも、受験をのりこえられたことを糧にして、あきらめずに努力していきます。
私を支えてくださったみなさん、本当にありがとうございました。
2015年度 - 合格体験記
名前 | タイトル | 所属の教室 |
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S・Sさん | 茨木教室プライム |